核も戦争もない平和な21世紀に!
2022反核・非核交流会
7月23日、さいたま共済会館で、原水爆禁止埼玉県民会議が主催する「被爆77周年反核・非核交流会」が実施されました。
集会では埼玉県平和運動センターの沼尻議長(自治労埼玉県本部委員長)の 主催者挨拶に続いて、被爆者の訴えとして、埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)原明範会長が自らの被爆体験を語りました。
今年80歳を迎える原さんは広島で被爆したのは3歳の時で、被爆当時の直接の鮮明な記憶はありません。広島や長崎で被爆体験を持つ多くの人が亡くなっていくなかで、被爆の体験をどのように伝えていくかは、現実に大きな課題になっています。「核兵器をなくし、人類の危機を救うために、命の限り活動を続ける」との原さんの決意が参加者の共感をえていました。
次いで、福島原爆事故避難者の鵜沼久江さんの訴えがありました。福島県双葉町で、東京電力福島第一原発の2.5km圏内で、夫婦2人で、50頭の牛を飼って暮らしていた鵜沼さんは、当初は福島県内に避難しました。「最初の3日間は、毛布が一人1枚支給されただけで、食べ物もなく、食パン1枚を夫婦2人で分けあって食べる状態でした」「それまで、年に1回指定された場所に集まり、バスで避難をする訓練をしていましたが、現実にはそのような避難はできませんでした」「3月18日に埼玉スーパーアリーナにたどり着き、そこで初めてテレビを見て、津波被害の大きさに唖然あぜんとした。アリーナ屋内は多くの避難者でごったがえしていたが、食べるもの、着るものあり、地震後、初めて一息つけた」と語りました。アリーナでの避難生活を経て、その後、加須市で野菜作りをしていますが、未だ、双葉町に帰ることはできません。避難解除されても帰って畜産の仕事ができるわけではありません。鵜沼さんは、国や東電が十分な補償を行ってない反面、被爆した農地にも固定資産税の納入を求めるなど、「被災者の立場に立った行政が行われていない」ことの不条理さを強く訴えました。
その後「原爆絵画展」や「反核平和の火リレー」のとりくみ報告がありました。集会後、参加者は「核も戦争もない平和な21世紀に!」の横断幕を先頭に浦和駅東口までのデモ行進を行いました。子どもたちに核のない未来を受け渡すため、更に運動を推進していきましょう。