第5福竜丸展示館訪問記
埼葛支部 菊地一成
埼玉教組ニュース3月号の羅針盤の記事に触発され、第5福竜丸展示館を見学してきました。当日は天候にも恵まれ、展示館のある都立夢の島公園では、園内のアーチェリー場で、大学のリーグ戦が行われていました。
都立夢の島公園はJR京葉線の新木場駅近くでしたが、その片隅にある展示場はちょっとわかりにくく、間違えて「夢の島熱帯植物園」に行ってしまいました。
木立のなかにある展示場は、大きな目立つ建物ではありませんが、何と入場は無料でした。東京都が年間3000万円以上を受託事業として「第五福竜丸平和協会」に支出していることがわかりました。
第5福竜丸は「木造のマグロ船」聞いていたのでもっと小さい船かと思っていましたが、思ったより大きな船でした。この船に乗っていた乗組員23名が1954年3月1日、マーシャル諸島ビキニ環礁で行われた、アメリカの水爆実験で「死の灰」を浴びたのです。 乗組員全員に原爆症の症状(火傷、頭痛、吐き気、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛)がでて、帰国後入院しましたが、半年後、久保山愛吉さんが「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい。」という言葉を残し亡くなりました。
第五福竜丸は、その後、除染と検査を行い、東京水産大学の練習船として使用されましたが、1967年に老朽化で廃船になり、第15号埋立地(現在の若洲地区)に埋められる予定で係留されていました。このことを知った多くの人々から保存運動が起こり、東京都は1976年に第14号埋立地(夢の島)に展示館を開館させました。
当時は社会党、共産党を与党とする美濃部革新都政(1967年~79年)でした。その後の石原都政や現在の小池都政では、このような英断はなされなかったのではないかと思います。今後、万が一にも、維新府政が閉館に追い込んだリバティ大阪(大阪人権博物館)のようにしてはならないと思いました。
また、館内には見学した子どもたちが寄贈したたくさんの千羽鶴が飾られていました。都内や近県の小中学校だけでなく、第5福竜丸が、和歌山県串本のカツオ船として、最初に進水したためか、和歌山県や三重県の中学生から贈られたものもありました。
30歳の娘に聞くと「小学校(埼玉県三郷市)の社会科見学で行ったことがある」言っており、被爆のことも学んだようで少し嬉しくなりました。ひとりでも多くの子どもたちや先生方(それ以外の大人にも)に訪問して欲しいと思いました。葛西臨海公園とのセットで如何でしょう?
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